精神分析

feuillesさんによる精神分析の概観

「lacanianさまへの返信」ラカンの言語論:<現前の形而上学>批判

「<現前の形而上学批判>批判?」

<批評の戯れ>


<後期デリダにおける精神分析

feuillesさん

Foi et savoirを読み返していて,『絵葉書』をはじめ随所でフロイトラカン批判を行っているデリダが,精神分析を高く評価している箇所を見つけました。後期デリダにおける精神分析というのは興味深い題材かもしれません。


lacanianさん

「後期デリダにおける精神分析」は私も非常に興味があります。

La Carte Postalに対して三者とも関心有り


精神分析サークルに関する見解

lacanianさんはサークルに参加している

このサークルは、私のような学部学生とは違って、尊敬すべき素晴らしい臨床家の先生方が集まった、おそらく日本初のサークルです

feuillesさんは批判的である
feuillesさんによる精神分析の概観より



ラカンデリダ

feuilles:
ラカンに関しては言語論に関心があり、
特に<解釈に伴う意味のメトニミー的横滑り>に関心がある
→「真剣に解釈しようとすればするほど,意味が不確定になっていく」というデリダ的テクスト解釈と結びつく


ラカンに関する別の関心
シニフィアン連鎖の分析家による解析過程のシェーマ>
→<意味の横滑り>と上記を結びつけると
→解釈の共同体においては<意味の横滑り>が際限も無く生じ、任意の地点において横滑りを止めると
共同幻想=ドグマ=「ラカンはきっとこう言いたかったのだ」に陥る
→それに抵抗するために、ラカンデリダは<個人的に>読みたい
→<意味の横滑り>を際限も無く続けたい


lacanian:
それはあくまで<ラカンデリダ>に限定された構図と見える。lacanianはそれとは違う面にラカンの可能性を見ている。


Jacques:
lacanianはこのコメントにおいてfeuillesの前者の面、つまり「<解釈に伴う意味のメトニミー的横滑り>がデリダ的テクスト解釈と結びつく」のみを見て、後者の面を見ていないと思われる。


lacanianの提示するラカンの可能性:
60年代ラカンは<解釈>を
「意味が横滑りするメトニミー的な側面」ではなく
「主体の<無意味の核>に接近するための技法」として扱っている

セミネールXI『精神分析の四基本概念』

「無意識におけるシニフィアンは全てのsensへと開かれている」
→誤謬


<無意識におけるシニフィアンは主体を構成する>
(全てのsensに対する主体の自由という形式で)

→この命題は「主体がsensに対して確定されていない」ことを意味しない

ラカン派の解釈:

significationの多義性に関わらず最終的に<単一のsensのシニフィアン=無意味のシニフィアン>へと至る/回収される
→「手紙は宛先に必ず届く」
デリダによると「現前の形而上学

lacanianによるテクスト読解の方法
→<メトニミーによる意味の横滑り>ではない
→「主体の<無意味の核>に接近するための技法」に近い?

lacanianの以前の発言:
「後期デリダにおける精神分析は私も非常に興味があります」
→本コメントのような、ラカンデリダの具体的な理論の違いと、その臨床的応用という観点からの興味


Jacquesの疑問:

  • <無意味の核>とは正確には何か→「我思うゆえに我あり」に関する考察と関係があるのか
  • セミネールXIの引用部分が理解できない
  • 精神分析の理論とその臨床的応用にJacquesは関心が無く、feuillesさんもそう見える、ならばlacanianさん達との接点はどうあるべきか
  • →Derrida, Pour l’amour de Lacan
  • lacanian:「現前の形而上学批判の議論が第二節以降にすばらしく明晰に展開されている」
  • →共同読解の可能性


feuilles:

ラカン読解の別の可能性として

Slavoj Zizek
否定的なもののもとへの滞留
汝の症候を楽しめ
浅田彰による解説

中野昌宏『「否定神学」批判の陥穽』

東浩紀存在論的,郵便的』の「否定神学」批判を検討している
ラカンデリダという問題設定


ラカン理論から考察した貨幣と言語


lacanian:
以下の研究に対して、今後の理論的・学際的研究という点で、非常に注目しております