この二日間、貴方の心無い暴言にとても苦しみ、考え続けました。

貴方が「言い過ぎであった」「表現に誇張があった」と認めるならば妥協の道がありますが、撤回する必要を認めないならば、僕にも多少の考えがあります。

僕がrevoluさんの文章を引用したのは偶々読んだ彼の文章に現在の僕の考えている事と類似した部分があったためで、それは
「日本人が外国語を学ぶ事にはどのような意味があるか」
はてなの下らない騒ぎを見る度に、他のポータルに移行した方が良いのではないか」
という問題です。その二つがさほど異常であるとも、feuillesさんのブログにとって懸隔した無意味なProblematiqueであるとも思えません。

僕の引用を削除するというのなら、少なくとも最近に僕が引用した森本・中井氏の引用に関して削除勧告を出すべきだと思います。両氏の当該引用よりrevoluさんからの引用箇所が価値が低いとは僕には思えない。低い、とfeuillesさんが考えるなら、その理由を説明すべきです。

当該のコメントは、一刻も早く削除しないと個人情報などが暴露される、という類のコメントでは決してありませんでした。そうであるのに、僕の返答を待たずに一方的に削除するのはどのようなものか。


「今や貴兄は彼の一番のエヴァンジェリストになっている。意識的か無意識的かは別にして。多くの布教家に対してと同じように、私は申し上げます。「よそでやってね。」と。」

とはどのような侮蔑か。
病気で体調が悪い友人(と僕の側では思っていました)であるfeuillesさんがBlogを更新できない時に、僕が代わってささやかなエントリをした、それに対して投げかける侮辱であろうか。

僕はrevoluさんの暴言や放言には見向きもしない。ただ、彼が彼の条件下で苦境に陥っているらしく思え、尚且つ、氏には少なくとも僕以上の知的能力と志があるように見受けられる、ならば、彼の良い部分を肯定的に捉えて引用するのには価値があるのではないか、と思うのです。それを何故「布教」と決め付けるのか。

僕はfeuillesさんと違って下層階級で生まれ育ってきましたので、フランス語どころか中学もまともに卒業できない人間とも多く接してきました。その中でも、魅力的な人間や一瞬でも心を通わせた人間はいました。エリートだけが人間ではないと思うのです。feuillesさんでさえ、僕のような(feuillesさんの好む言葉で言えば)「ゴキブリ」にこの半年ほど多少なりとも助けを受けている。敢えて言えば、feuillesさんはその程度の力しかないのですよ。それでもやはり、feuillesさんは自己の主張を貫きますか?

anti-theseくんの論理や実証が粗いのは認めますが、vongoetheくんなどは、僕が不登校だった15才の時よりも遥かによくやっている、と僕は評価しています。その志を肯定的に捉え、ささやかな支援を試みる僕は「revolu派の布教家」になるのですか?彼らはなぜ、何の関係もなく、援助もしないfeuillesさんに馬鹿にされなくてはならないのですか?

「ゴキブリ」には「ゴキブリ」の生き方もありますし、反抗の仕方もある、というささやかな抵抗を試みました。

返答を頂きたく存じます。




削除されたコメント



>■はてな村ってキモイ奴しかいないな
さすがアングラ株式会社が運営するブログ。

それならば別の企業運営ブログに移行すれば良いと思います。僕も、率直に言って「はてな」に対する評価は下がる一方であり、移行したいと考えています。
僕のいつもの<理念>からすると、複数のブログを運営するべきだと以前から考えています。各企業の特徴がなるべく重ならないように選び、その都度の或る理念に合致する企業にコンテンツを供給する、という考え方です。

僕の選択肢は、
Google
(僕が最も使用しているServiceであり、統合性・体系性・移行性において僕にとって最も利便性がある)、
はてな
(Serviceの相互連関性において優れている、が、敷居の低さからか、ネットイナゴ達が最も群がるという印象がある)
Livedoor
(LivedoorNewsはBlogと多く提携している)
といった所ですね。
未だ詰めが甘い考えですけど、商業出版よりBlogの方が遥かにこうした理念を実践し易いので、先鋭的な考え方の人には是非実行して欲しい所ですね。実際、藤田尚志さんはそうしていました。いまは比較的一元化(Google)されているようですけど。
一橋大学の御二人(森本/中井・准教授)は何故かRSS/XML形式ではないコンテンツを生産している。不思議です。
上記の考え方は、最近耳目を集めた宮台真司さんの「KYを目指せ」と関連があるような。





(以下はrevolu氏のBlogからのそのままの引用。feuilles氏にコメントした内容とは多少異なる)

その国の文化は言語に出る。日本語は、とても調和を気にする言語で、文法的に正しければよいというものではなく、なんと言えばいいか、さっと読んだときのまろやかさや違和感のなさが要求される。これがそのまま人間活動に出る。日本の組織社会では、全体の調和を崩すまいと一挙手一投足に気を使う社会で、この点は日本語とまったく同じである。自分が日本語の文字の一つになった感じになれば分かりやすい。私も日本語の文章を書いているときにはものすごく気を使う。これがかなりストレスになる。

英語やフランス語は、文法さえ合っていれば全体の調和はさほど気にしないはずである。少なくとも日本語ほど神経質ではない。英語は実用性重視で、汚なかろうが文法破綻していようが、能率的に素早く意味を伝えようとしてくる性質がある。ドイツ語は文法がきつく決まっていて、安定性がある。フランス語は流麗さを気にするものの、英語と同じで文全体の調和を追及するほどではない。中国語は、まず型破りである。一個一個の文字で意味をぶつけてくる。漢詩をみればよく分かる。文法がほとんどよく分からない。中国には法がないと言われることがあるが、文法もないのではないかと思う。日本語は、古文や擬古文では、中国語と同じで文字で意味をぶつけるところがあるが、明治以降、プロイセンに範をとったために、ある程度言語に論理性を押し込んだ。しかし、論理性は結局学界にしか定着せず、庶民の間では、中国語的な、一文字一文字による意味の押し付けが主流で、やはり論理性は薄い。日本語は、なんというか、中国語のように意味重視なのだが、島国であるためか高度に調和性を重視し、なおかつ、歴史経緯から一定の論理性ももった言語ということになるか。